デジタル・プラットフォームの専制

京都大学法科大学院非常勤講師(消費者法) 弁護士(京都) 住田浩史

1 はじめに:「専制」の主体の移り変わり

 「専制」とは、自分の好きなようにする、ほしいままにする、ということであり、専制君主、ということばもあるように、かつては、もっぱら国家あるいは国教会などの公権力が「専制」の主体であった。ところが、19世紀フランスの政治家トクヴィルがアメリカでみたものは、イギリスの「専制」から独立し、民主主義を実現したアメリカにおいても、なお「多数者」による専制tyranny of majorityの危険がある、ということであった。イギリスの功利主義者J・S・ミルも賛同し、これを「社会的」専制social tyrannyと名付け、さらに、社会的専制は、公権力の専制よりもはるかに危険である、と論じた。なぜなら、公権力の専制が刑罰や法律というツールで外的に自由を奪うのに対し、社会的専制は、「自分たちは自由な意思に基づいており、多数に承認されているのですよ」という内的なはたらきかけをしてくるからである。そうすると、少数者は「自分は間違っているのかもしれない」と思い、専制に、外的ではなく、むしろ内的に、「自ら」従う・・・

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