偽装勧誘におけるマインド・コントロール

立正大学心理学部教授 日本脱カルト協会(JSCPR)代表理事 西田公昭

1 マインド・コントロールとは何か

 マインド・コントロールとは、他者によって受け手の自覚のないところで意思決定が誘導されるコミュニケーションによる心理操作のことを指します。この言葉は、あいまいに扱われ、「洗脳」と同義として用いられたり、巧みなリーダーシップや宣伝に心酔した状態を指して用いられたりしていることがあります。

 しかし実際には、この概念は、カルトと呼ばれる人権を脅かす集団が、あこぎなまでにこの手法を駆使して、メンバーの自律心を奪い、搾取、虐待、殺人といった重大な人権侵害の結果を引き起こす現象をひとことで言い表したいためにつくられました。たとえば、それは未曾有の無差別差殺傷事件さえも引き起こしたオウム真理教信者の心理や、霊感商法や強制的な合同結婚を受容する統一教会信者の心理などを説明したのです。

 これを用いて勧誘し、メンバーを管理している集団は他にも後を絶ちません。ある日突然、一般の人々が何気ない趣味的な集団活動に参加したり、気軽な勧誘を受けたりすることがきっかけとなり、このような集団のメンバーとなって、いつしか人権侵害の被害を被ったり、その過激な思想を受容して加害者になってしまうのです。つまり、メンバーは活動している自分の所属する集団がカルトだとは思っていません。大切な自己決定権を放棄して、団体のリーダーの意思に依存して絶対服従するも、団体の活動への一切の批判を許さず、私的に得ている幸せを手放すのも、今は辛くともそれを目的成就のためには仕方ないことだ、と忍従する心理が誘導されているからです。たとえ卑怯な偽装勧誘によって出会った団体であったとしても、ありがたくも自分は特別に選ばれた者とみなし、自集団は崇高な目的にまい進する正義の団体であり、それを浅はかにも批判する者は知らないだけだ、と幻惑されているのです。そこに、自分のみならず親や子といった大切な家族の人生がその後ずっと嘘や欺瞞に満ちた集団に翻弄されていく予測は、まさかにもありません。これが、マインド・コントロールの完成した状態です。

2 洗脳とマインド・コントロール

 さて、マインド・コントロールは、軍事技術としての「洗脳」の研究にはじまりました。その一連の研究では、基本的には、学習理論における脱条件づけの原理を応用して“人間のロボット化”が可能であるかどうかが研究されました。たとえば、人は身体的拘禁や拷問などによって、極端に過度な刺激を与え続けられたり、極端に刺激の少ない状況下に置かれ続けられたりすると、信念の好─悪といった評価のパターンがこれまでのものと逆転する現象が起きると説明されました。洗脳は、1950年代に中国共産党や北朝鮮において、この現象を応用したスパイ養成や戦争捕虜の自白を目的とした尋問プログラムが開発され、実施されたのです。しかし洗脳は、監禁したうえで虐待することが前提で、行動上の服従をもたらすが、内面的な信念の変化にまでは影響しえなかったと報告されており(ただし、プログラムを完了したスパイや捕虜は、元に社会に帰されたのですから、そのまま、向こうの社会で暮らし続けた場合の効果を評価したわけではありません)、“人間のロボット化”の実用は虚構だとされました。

 それから1970年代になって、幾人かの心理学者は、カルト脱会者に共通して見られた特有の心理を示しながら、カルトは「洗脳」を用いてメンバー管理をしていると訴えるようになりました。しかし、カルト側は、メンバーになるのは各人の自発的な意志であって、監禁や暴力を与えていないし、逆にメンバーになることによって、主観的幸福感が増すことを主張したり、洗脳という批判は、カルトを問題視する人々の偏見であって、勧誘・教化法の効果性を過大視していていると指摘したりしたのでした。この議論は、1980年代後半になって、アメリカ心理学会までも巻き込んだのですが、調査委員会としては、科学的研究がいずれの側にも不十分であると判断しました。

 さてその後、カルトの勧誘や教化に対して、洗脳とは異なる新たな説明として社会心理学が用いられるようになりました。この流れを汲んで、「マインド・コントロール」という言葉が用いられるようになりました。この理論的説明では、カルトに関与する個人の心理過程を、説得やグループ・ダイナミックス(集団力学)の文脈でとらえます。これらの論は、洗脳研究の成果を基礎としながらも、物理的な身体拘束をともなう拷問や虐待などを強制しない点を重視して、根本的にはそれとは不連続なものであり、状況と現実性(リアリティ)の心理操作を強調する論となっています。つまり、マインド・コントロールは、巧みな隠蔽と欺瞞のコミュニケーションという情報による心理操作であり、日常的生活の延長上に生じる社会現象としてとらえられるようになりました。

3 偽装勧誘とマインド・コントロール

[1]温かな関係構築:初期接触での承諾誘導のルール

 最初の接近段階では、ターゲットが勧誘を断りにくい状況や場面を偽装します。具体的には、断ると親切な相手に失礼だと思わせる(返報性)、ターゲットを賛美したり高く評価して喜ばせる(好意性)、勧誘者は信頼できる専門的知識がある人だと装う(権威性)、毎回のアポイントメントにおいて執拗に念を押したり期待をかけたりする(コミットメントと一貫性)、今回の出会いが最高で最後の稀少なことのように装う(希少性)などの心理学的な承諾を誘導する原理が組み合わせて用いられます。

 このときカルトは、入会の勧誘という本当の目的を告げず、嘘をついて別の活動目的や団体名を偽装して安心を与えようとします.このところ、家族や大学などから宗教やカルトに気をつけるように警告されている若者も多いため、まったくその気配を消した“カモフラージュ作戦”なのです。あるいは、家族や友人のような既に信用している人を使って近づいてきます。一般に、人は自分をわざわざ悪い人には思われたくない心理があり、話を聞くだけなら良いなどの、つい彼らの意図どおりの反応をしてしまいやすくなるのです。

[2]未解決な問題を突きつけ不安を煽って依存させる

 しかし、話を聞くだけでは済ませないのがカルトです。一般に人は話を聞いた後で、何か次の勧誘があれば断ればよいし、それぐらいできそうだと思う人が多いようです。カルト偽装勧誘では、素性を隠したSNSを駆使したり、いろんな周囲の人を用いたりして、ターゲットの個人情報をこっそり集めています。そして、いわゆる“泣き所”を見つけて、攻めてきます。そこは、不完全な自分です。多感な思春期をどうにかやり過ごし、自立を求められる成人初期の頃には、誰でも解決困難な問題が抱えていることに気づくでしょう。自分のコンプレックス、将来の生き方への不安、孤独感や疎外感、友人や恋人との不仲、家族との対立、経済的不安、神秘的な宇宙の謎、生命の根源や死後の世界、世界平和、等々に対して、誰もが何か未解決な問題に関心があったり、躓いたりすることがあるでしょう。もし、カルト勧誘の偽装とは知らず、信頼している人が、そこを突いてきて、解答があるから知りたくないかと誘われても断れるでしょうか。

 しかも、カルトの人は、見ず知らずの人ではなく、これまで普通に仲良くしてきた人々なのです。つまり、偽装勧誘では、知り合ってすぐとは限らず、タイミングを見計らって攻めてくることも多く、すでに団体の主催するイベントや集まりに何度も参加して、温かい関係が構築されたあとなのです。いつしかターゲットの周辺には、カルトのメンバーながら“良い人”ばかりになっているので、古くからの支援者には頼れない状態です。このような状況で、一方的な説得メッセージが効力を発揮します。つまり、ターゲットはカルトの外部の情報源から遠ざかり、隠ぺいや欺瞞に気づかなくさせられているのです。今時、ネットで調べれば見破れそうに思われるかも知れませんが、そこで得られる情報ぐらいは、上手くかわせるように、カルト側も入念に対策をしています。

[3]欺瞞的説得:鮮やかに解決するかのように幻惑する

 解決困難な問題をすっきりと解けたかのように見せ、思想の全体を受容してメンバーになるとこのような利得が獲得できると説いてきます。

 この幻惑には、実際のところ、大きな矛盾や欠陥があります。というのは、思想では、世界の破滅の日を予言していたのに、まったく外れてしまったり、教祖などのリーダーは神や聖人のごとく称えられていたのに、何とも下世話で情けない人間だと確認されたり、思想では万人を幸せにできるとしながら、現実には多くのまぎれもない不幸をつくりだしたりするからです。

 ターゲットにはそれらに気づかせず、解決しがたかった人生の問題において、とても有効に働く“意思決定の装置”のような便利なものが手に入るのではないかと期待させられるのです。たとえば、「今の自分はダメな所だらけだが、従って行動すれば、すごい人になれる」とか、「この世が破滅に突き進んでいるとしてもそれを救済するメシアがいるのだ」とか、「なんでも善なる願いは叶えてくれるし、また悪を滅ぼすこともできる存在が自分たちのリーダーだ」とかです。もし、本当だったら良いかも知れないと思う内容ですが、これだけなら「そんなことを信じるなんておかしい」と思うところでしょう。

[4]リアリティ構築の偽装操作

 しかし、「ここで立ち去るも自由ですが、もし本当だったらとんでもないことですよ、いいのですか」というような問い詰めを、極めて至近距離で、大きく目を見開き力強く、自信たっぷりに繰り返し言われるとき、絶対に嘘だと否定できるでしょうか。驚くべき事実であり、もし皆に知られると世界が混乱するといけないから、実は秘密にされているのだ、と吹聴して、社会の背後に邪悪な強敵がいるとか、迫害を受けているとかの陰謀めいた話をすることもあります。そして、ターゲットは成長の見込みがあるから特別に知らされたのだ、と自尊心をくすぐるのです。カルト勧誘者は、この話に辻褄の合う実体験ばかりを根拠としてあげてきます。矛盾する事象は見せません。また有名な知識人のコメント、権威的な専門家などが認めているといった情報を提供してきます。ときには、大物政治家や著名なタレントも陰ながらの支援者であるといった情報も提供します。そして、何といってもこの話は特別内緒の告白であり、今、この周囲にいる人だけが、満場一致で理解している内容なのだというのです。実際、ターゲットが周囲の人を見ると、そこは信者しかいないのですから当たり前ではありますが、ターゲットの入会に強い期待をこめて賛同している態度を示してきます。

[5]実践することで錯覚的に確証される

 このようにターゲットが半信半疑ながらも立ち去れないでいると、カルト勧誘者は、実践へと誘います。「活動してみるとわかる」とかいうのです。ターゲットは、信者に連れられて、一緒に活動に従事します。礼拝、修行などの儀式的な行動や資金調達の活動にも従事することになります。しかも、朝早く起きてミーティングや礼拝に従事したり、また街角で声をかけたりしなくてはならず、結構に一生懸命にやらされ、心身ともにハードな日々を送らされるのです。

 実はこのように、実際に行動することが内面の認知や感情を変化させる心理学的原理があります。ターゲットが教えられた思想に沿って行動するとすごく褒められるし、良い出来事がおきると従った活動への褒美だ、悪い出来事がおきると不信仰への罰だと、教義に沿って意味づけされてリアリティを高めます。つまり、起きる結果がどっちに転んでも、教義を正当化する論理が用意されているのです。また、集団活動を続けていくにつれて、そこで果たす自分の役目が知らずと自覚され、新たなアイデンティティが獲得されていきます。新たなカルトのアイデンティティは、自分の元のそれと融合して、これまでの自分の生活ではあり得ない自虐的な活動や、一般社会からは逸脱とみなされる活動でも、その集団の規則に沿うことだけを意識するようになってしまい、非常識な自分に麻痺していきます。カルト勧誘者はそんなターゲットを強くほめたたえる一方で、以前の生き方を堕落したものと厳しく批判し、“地獄行き”などの恐怖を与えて二度と戻らせないように仕向けるのです。そうした決意を皆の前であえて表明させたり、宣誓書に書かせたりすることもあるでしょう。

[6]自己犠牲:退路を断って前に進む

 最終的に、カルト勧誘者は、ターゲットのそれまでの生活を放棄させたり、財産を投じさせたりして思想の実践行動をさせることで後戻りできなくさせます。ターゲットが集団活動をより充実させたものにしようと思うと、趣味的な活動はもちろんのこと、学校や仕事を辞めて全身全霊で活動するように勧めます。あるいは、忖度させます。献金もこれまでの額より増やし、回数を増やし、全財産を要求したり、借金させたりする場合もあります。厳しい修行に従事する理屈で、古い友人、恋人、家族などとの支持的な交際をやめるようにも求められることもあります。こうした自己犠牲を多く支払うことで、ターゲットは、もはや後戻りはできないと思うようになるのです。

4 偽装勧誘におけるマインド・コントロールがもたらす結果

 すでに説明の中に交えてきたことですが、カルト信者になると非常に多くのものを失うことになります。金銭的な財だけではなく、友人や家族からのサポートも失います。それまで、大事に育んできた“人生の夢”を無駄なことだとされ、学校や仕事も辞めさせられてしまうことがあります。健康な心身を失い、自殺に追い込まれたケースもありました。さらには、極端な過激主義者になって、他者の命を脅かす者になることさえもありました。

 それらもまた、すべて自分の自由な選択ではなかったか、という人がいるかも知れません。しかし、それはどうでしょうか。カルトの勧誘において、正々堂々と自らの集団目的、財務状況、組織構造ならびに活動実態とその歴史などの重要な情報を嘘偽りなく説明していたら、自主的に手を挙げて入る人はどれくらいいるでしょうか。つまり、偽装勧誘がなくて、ターゲットは入会して得るものと失うものを知り、納得の上で入会したのならば、はじめて選択の自由の権利を行使しただけだといえるはずです。つまるところ、偽装勧誘やその後も続くマインド・コントロールは、責任ある自由な思考を停止させ、集団の意思を忖度させます。それは、一見、自己決定とみえても依存であり、呪縛された意思決定なのです。