私のカルト体験

カルト脱会者A

1 入信にいたるまで

 私のカルトに入るきっかけは、大学を卒業し就職した年の秋です。日曜の夜9時頃に地元の駅構外を歩いていたところ、「アンケートをしています」と声をかけられました。私と年齢が同じ位の女性が立っていました。眼鏡越しの目がキラキラしてて、人柄も良さそうでしたので、時間はかからないだろうと思い応じました。10分程でアンケートが終わると、自分たちが学んでいる所があるので今から是非来てほしいと言われました。私は、帰るところなのに、と渋りましたが何度も詰め寄られてしまい、この人なら大丈夫そうと思いOKをしました。

 連れて行かれた所で20分のビデオを見せられました。見終えると、私を誘った女性と一緒に“カウンセラー”と称する女性が現れ、ここで学び続けてほしいと迫られました。何度断っても迫られ続けてしまい、このままでは最終電車に間に合わないと焦った私は、早く帰りたい一心で夜中12時前に、ビデオを10数回学ぶという契約をしてしまいました。この初回の後に私から尋ねると、この施設は人生を学ぶ「ビデオセンター」といい、多くの学者や著名人が賛同しているとパンフを見せられました。そのため、私は安心感を覚えましたし、特定団体の教義を学ぶとは考えもしませんでした。でも、もし背後の団体名と教義の問題など本当のことを知ったならば、決して契約も通いもしなかったはずです。ただ、何も知らない私は、約束したから最後まで観なければと思って通い、そして次の2日間合宿、さらに次の講義を受けました。契約したビデオセンターで終わると思っていましたが、合宿や講義の話がその都度出てきて説得され、そのたびにこれで終わるだろうと思っていました。

 そして、さらに次の4日間合宿の直前に初めて団体名を聞かされ、キリスト教の宗教団体であることが解りました。知らないままの私は、中学高校の時に通ったキリスト教会のようにしか思いませんでした。でも、もしこの時に団体の実態や、このまま進めば信者にさせられて生き方や価値観を変えさせられてしまうと知ったならば、即刻辞めたはずです。一方、勧誘者やスタッフに対しては、いい人たちだと好意的に感じていました。そうした気持ちもあって、参加はするけれど、これできっぱり終わりにしようと考え、合宿後は連絡など一切断ちました。

 しかし、その1年後、女性スタッフから電話がかかりました。もう一度4日間合宿に出ないかという誘いでした。この頃、私は仕事で悩んでいました。毎日夜中までの残業が半年続いて身体は疲れきり、会社の歯車で生きる意味が見えないと感じたりしていました。そんな状況だった私は、わざわざかけてきてくれたのだから、という程度でOKをしてしまいました。

 2回目の合宿では、それまで聞いていた内容が、私個人のあり方や生き方に迫ってきました。特に罪についての講義では、自分の悩みの原因が解き明かされた、自分は罪人なんだと揺り動かされました。さらに大戦中、日本が韓国にいかに非人間的扱いをしたのか知らされ、胸に強くささりました。そして、自分はこの教えを信じようと強く思い込まされました。今思えば、なぜのめり込んでしまったのか不思議です。心身ともに疲弊していたところに、しがみつくものが目の前に見えてしがみついてしまったという感じでした。

 この合宿の後には、教育トレーニングが2段階ありました。最初のトレーニングは、信仰生活を学び体験する共同生活が目的です。仕事などを終えた後、教団の施設で夜7時から講義を受け、その後受講生とスタッフが一緒に食事をしながら語り合い、施設に毎日寝泊りして祈祷や“行”など教団の信仰生活を覚えさせられました。特に、ビデオセンターから聞かされ続けた「アベルカイン問題」は重要でした。これは、カインが信仰的なアベルに従わなかったため神の計画が失敗したが、より信仰的な人物に服従することで神の計画は成就するという教義を指します。この教えのもと、信仰が幼いカイン的立場の受講生は、信仰の兄姉でありアベル的立場のスタッフを信頼して仰ぎその指示を受け入れるよう、生活を通して習慣化させられます。さらに、食事での語り合いでは、日常の出来事を教義との関連でどう考えるべきか教え込まれ、同時に、信仰の確立にはスタッフへの事細かな報連相が重要と教え込まれました。そして、これら教え込みを通して家族や友人、職場や異性との交流を減らすように指導されました。

 次のトレーニングでは、活動実践が要求されます。家族や友人をビデオセンターや霊感商法などに動員することが課せられ、スタッフから具体的指導を受けて従順に実践するよう“信仰”として強いられました。また、アベルカインの教えのもと「疑問を持つことは不信仰」と教え込まれ、さらに教団本部の教育責任者から「大義(信仰)は良心に勝る」「大義のため嘘は必要」と説き伏せられました。

 こうしたトレーニングを、私は2回目の合宿で植え付けられた決意の勢いで突き進みました。そして最後には、それまでの人間関係を絶ち仕事を辞め金品を放棄するよう指示され、献身を決められてしまいました。

2 スタッフ活動─被害者から加害者へ

 献身した私は、スタッフとして活動することとなりました。私が担わされた活動は、街頭での声かけ専門部署とビデオセンターの“カウンセラー”、霊感商法の販売員や教育部スタッフです。教育部では多くの受講生を献身へ導く役割を担当させられました。また、霊感商法の経済活動では印鑑や数珠などを販売し、特に、当時70代前半の一人暮しの女性に貯蓄1200万円から980万円を出させて多宝塔を買わせてしまいました。

 今でも覚えていますが、多宝塔を買わせたその月末の夜、私は霊感商法販社の責任者会議に呼び出されました。この人の貯金はいくら残っているのか、何か欲しがっていたか聞かれたので、220万円だと思う、ご両親やご先祖様のお墓を建て直したいと言っていたと伝えました。すると責任者たちは、それなら墓を売ろう、200万円でどうか等々、口にしていました。この後、寝るときに「あのおばあさんの貯金が20万円になるんだ。老後はどうするのだろう」と、ふと思いました。すると翌日の朝、布団から起き上がることができず、3日間続きました。おばあさんの老後を心配する気持ちが湧いたものの、良心は不信仰と教え込まれていたために葛藤が生じたのだと思っています。

3 脱会後─カルトの傷跡

 私自身は、家族の熱心な働きのもと、牧師さん達と話し合って何とか辞めることができました。もし、家族が積極的に介入してくれなかったら、私は今でもこの教団から抜け出せなかっただろうと思っています。また、脱会にあたっては、教団の教えや活動がどのように問題なのか学ぶことができました。でも、これは身を焼かれるように苦しいことでした。信じた内容が間違いであり、その人の救いのために必死でやってきた活動が反社会的行為だと認めることは、信仰と活動の否定であり、自分自身を否定することでした。さらに、地獄に堕ちる覚悟も必要とする決断でした。

 脱会後に悩んだ一つは、多くの方を巻き込んでしまったことです。被害者であった私は、霊感商法の経済活動と教育部での活動から加害者側になっていました。そのため、霊感商法のゲストは氏名と住所が判っていたので、謝罪して回りました。涙を流してお礼を言われる方もいましたし、怒りをぶつけられる方もいました。ただ、多宝塔を購入した女性は既に当時の住所にいませんでした。また教育部では、多くの受講生に教義を正しいと思い込ませて献身を決意させ、一人一人のかけがえのない人生をカルトの信仰へ導いてしまいました。あの受講生たちの名前も連絡先も判らない、何もできないと悩みました。

 二つ目は、どう生きていいのか解らなくなったことです。脱会することで、教義を信じ教団仲間と共に生きるという意味を失いました。また、勧誘前の悩みが入信で解決したと思っていましたが、脱会して、それら悩みは何も解決されないままであることを自覚させられました。脱会に伴う喪失と勧誘前の悩みが一度に降りかかり、深く苦しみました。

 そして、忘れられないのが仲間の交通事故です。脱会後1年経たない頃、私が所属していた霊感商法販社の社員6名が定員オーバーと居眠り運転で交通事故を起こし、3名が死亡、3名が重軽傷という記事が新聞に載っていました。亡くなった一人は、私がビデオセンター所属のとき受付を担当していた女性でした。その後、この問題の関係者を通して彼女のお父様とお会いできました。お父様は、彼女の死に顔を見ることができず、骨壺で自宅に戻った娘さんを抱きながら、やりきれない憤りを語っていました。宗教を謳った非人道的な団体だと、私は嫌というほど思い知らされました。

4 まとめ

 カルトは、とても危険な団体です。ターゲットとなる個人に対して、人間関係を提供しつつ“答え”を与えて信じ込ませ、“信仰”と称して服従を教え込み、さらに労働力を搾取し金品や不動産を取り上げます。

 このプロセスで見られるカルトの問題点は、接触時に自分たちについてきっちりとした情報開示をせず、そのうえで、嘘やごまかしを平然と使って巧妙に事実を隠したり騙したりすることです。私が関わった教団では、最初の接触から始まる学びは教養的学びではなく、実態は、信者育成のために教団の教義を学ばせることが目的です。その目的を秘すことで、受講生は知らないうちに教義そして“信仰”を教え込まれます。また、「教団のことを最初に話したら、あなたは信仰を持つことができなかったはず」と受講生に言い、嘘や騙しが必要な手段だと思い込ませていました。

 さらにカルトは、法律や道徳を遵守せず踏みにじる体質があります。“神”である教祖と“神”の側である教団は常に正しく、間違いはあり得ないと信じこんでいるためだと思われます。私が関わった教団でも、この世の法は教団の法より劣る、教団の常識は社会の非常識と教え込み、違法な活動を信者に担わせていました。しかし、教団が社会常識からかけ離れて反社会的活動や人権蹂躙をしてよい訳がありません。むしろ、宗教団体ならば、この世の法や道徳以上に、教団の在り方や信者の信仰活動に対してより厳しくあるべきだと思います。またカルトは、組織的な反社会的活動に対して、今はやってないから問題ない、教団はもう関係ない、というスタンスを取ります。しかし、宗教団体ならば、たとえ過去のことであっても教団の過ちを心から反省し、被害者や社会に対して誠実に謝罪し、次世代にしっかり語り継ぐべきでしょう。

 一方、ターゲットとされる個人の視点から考えると、カルトによってさまざまな弊害を被ってしまいます。金品などを奪い取られて大きな被害が生じるとともに、個人の人生やその人らしさが破壊されます。そして、どのような指示命令でも教祖教団のために尽くすことが信仰的で素晴らしいと美化され、極端な自己卑下と自己犠牲を良しとする価値観で生きることとなってしまいます。

 また、カルト信者になると脱会がとても難しくなります。教祖教団を絶対視して服従することが“信仰”と教え込まれ、疑問や批判を持たないように変容させられるためです。そして、辞めると地獄に堕ちる、大切な人に不幸が訪れるなど、“信仰”と称して目に見えない世界からの恐怖心を植え付けられ、心理的に身動きが取れなくなってしまいます。「カルトには辞めるという宗教の自由がない」と言われますが、そのとおりだと思います。

 さらに、カルト問題を難しくしている点は末端の信者です。個人が直接関わる末端信者は、その人の救いのためと純粋に信じきっているため、嘘をついたり騙しているように見えません。しかし、たとえ動機が純粋であっても、何をしても良いはずはあり得ません。また、悩みを真剣に聴いて親身になってくれたと思えたりしますが、目の前の信者は、あくまでも教団に操られているカルトの信者です。そのため、信者だけで教団を判断することはとても危険なことです。

 私にとってカルトを体験したことは、決して無駄ではなかったと思っています。出会うはずもない関係者や脱会者たちと深い交流を持つことができ、勧誘前の悩みについても、多くの方々のおかげで心の平安を得ることができました。それでも、このように至ったことは、カルトを脱会できたからこそ言えるものです。とりわけ、入信によって自分の人生や自分らしさが破壊されること、脱会自体がとても困難であることを鑑みると、カルトに騙されない、はまらないに越したことはありません。私自身、もし教団に入らなかったら自分はどんな人生を送っていたのだろうと、たまに思ったりします。悩みながらも全く違う人生だったことでしょう。少なくとも、脱会後の苦しみを体験することはなく、また、多くの受講生の一生を壊してしまったことを悔やむことはなかったと思っています。

 どの世代であっても、誰もが生きている中で悩みや苦しみを抱えますし、社会や誰かのためにより役立つ自分になりたい、平穏な家庭生活を過ごしたい、人生を意味あるものとして全うしたいと強く思ったりします。その時に、カルトが提示する“答え”に安易に飛びつかないでほしいと心から願っています。また、もしもある団体にこれから関わるあるいは関わっているならば、その団体についてできる限りの情報を団体内部ではなく外部から集めること、目の前の信者がどれほど親身になり自分を理解してくれていると思っても、背後にその団体が存在しているという事実を決して軽んじないこと、また身近な家族や信頼できる他者からの意見に耳を傾けて、自分の考えや行動が法律や道徳に反していないか厳しく検討することを強くお勧めします。そして今後、カルトによる被害者や犠牲者が一人でも現れないよう、カルト問題は消費者問題であり人権問題であると社会全体で共通に認識されるよう、この問題に対する啓発と予防が具体的に採られることを強く望む次第です。