初期クレサラ対協の運動(3)

全国クレサラ・生活再建問題対策協議会前代表幹事 弁護士(大阪) 木村達也

1 クレサラ対協への名称変更(1985年4月)と日栄商工ファンド対策弁護団

 貸金業規制法が成立すると貸金業者の登録制度が採用されたため、貸金業者数は激減し始めた。1983年4月、届出制度の下での貸金業者数は23万件を数えていたが、登録制度となり約2万件にまで減少した。財務局と都道府県の金融課はマスコミのサラ金批判キャンペーンの続くなかで、貸金業者の監督規制を強化し、多重債務相談窓口を設置して救済に当たった。

 若い弁護士や司法書士は、利息制限法に基づく救済が実務に定着し始めたことから「業務としてもやり甲斐がある」として、多くの人達が多重債務救済に動き出した。

 1998年12月、担保や保証人を取るいわゆる「商工ローン」の対策として、日栄・商工ファンド対策全国弁護団が結成され、グレーゾーン金利は「黒」であるとの法廷闘争が続けられ、新判例が獲得されると一気に過払金の返還請求事件が急増した。サラ金と商工ローンの区分けは近弁連の成果であった。

 グレーゾーン金利に対する最高裁判決が出るまでは、多重債務者救済は、任意整理や分割返済調停、自・・・

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