弁護士(札幌) 郷路征記
はじめに
私は、昭和62年から現在まで一貫して統一協会の伝道・教化課程が被勧誘者の信仰の自由を侵害する違法なものであると主張する訴訟を闘い続けている。下記の札幌における3件の集団訴訟の体験と成果を基礎として、現在では東京地裁で3件、前橋地裁で1件、札幌地裁で1件の計5件、原告13名の事件を担当している(前橋の件は共同受任)。うち1件では、ビデオセンター受講決定の際の申込書の中に「世界基督教統一神霊協会文鮮明師の統一原理を提示する」と記載されていることを理由に、統一協会が正体隠しの伝道ではないとの主張を展開している。その他の事件でも、日々、統一協会の伝道・教化課程の違法性を裁判所に理解してもらうために苦闘を続けている。
そうなる理由はやはり、「多くの日本人なら、宗教性(筆者注・正体を隠して伝道することを含む)が秘匿されようが、旧約聖書を題材にした原罪の話など『古事記』同様の神話にすぎないと考えるであろうし、霊界・因縁の話などは迷信にすぎないと考えるであろうと思われる。……宗教性が秘匿されたまま講義を受けたとしても、原罪や霊界・因縁が実在するとは感じないと思われる」(下記乙事件判決)という普通の人の当然の疑問、すなわち、「なぜ、そんなことを信じてしまうの?」に答えうるだけの説明を、私を含め誰もができていないところにあるのだと思われる。
そのようなことがあるのに、統一協会の伝道・教化課程の違法性を裁判所に認めてもらえた決定的なポイントが、やはり、「正体を隠した伝道活動」である。しかし、「正体を隠した伝道だ」とさえ言えば、裁判所が統一協会の伝道・教化活動の違法性をすぐに認めてくれるわけではない。正体を隠した伝道活動は、実は「なぜ、信じてしまうの?」という上記の疑問に直接答えるものではないからである。だから、上記の疑問に答えることができるようになり、それが違法であると裁判で認定されるようになれば、正体を明らかにした伝道活動についても違法とされるべきものは違法と認定されるようになるのかもしれない。しかし、そのようなことが可能となるのは、正体を隠した伝道活動を違法であるとして、統一協会の伝道・教化課程の違法性を問う裁判での主張の積み上げ、工夫、努力以外にはないのではないかと思われる。そのためにも、現在までの到達点を確認しておくことが必要となる。
入信勧誘活動が違法となる要件
統一協会の伝道・教化課程が違法であるか否かの判断基準は、その目的、手段、結果が社会的相当性を著しく逸脱しているかどうかである。以下、私の担当した各事件について、その各要件について、我々の今後の主張の土台となると考えられる認定について紹介しようと思う。なお、正体を隠した伝道活動の違法性がテーマになっている本特集の中で、目的や結果などの要件についても論じるのは、後記のとおり正体を隠した勧誘行為のみでも信教の自由を侵害する不法行為であると考えられるとしても、裁判実務の中では勧誘の目的・手段・結果が社会的相当性を著しく欠いているという主張をすべきであると考えるからである。
甲事件判決の内容
平成13年6月29日札幌地方裁判所で言い渡された元信者原告20名の事件(「甲事件」という)の判決では、
① 勧誘の目的について、「原告らの財産の収奪と無償の労役の享受及び原告らと同種の被害者となるべき協会員の再生産という不当な目的であった」と認定している。この認定は、乙、丙事件でも基本的に維持されている。統一協会以外の正体を隠した勧誘を行う団体についてどのような認定がされるかは、それぞれの集団の活動実体とそれについての立証活動次第であろう。そして、正体を隠した勧誘を行う団体について、甲事件判決が上記の認定を行った手法、即ち、勧誘対象者を選別して、魂の救済を切実に求めていると考えられる人を類型的に排除していることと、勧誘されたあとで現実に行わせる実践活動の実体に照らして詳細な検討を行うべきであると思われる。
② 正体を隠した勧誘が手段として社会的相当性を欠いていることについて次の点が指摘された。
ア 「宗教教義の勧誘の場合には、個人差が大きいものと推測されるとはいえ、後になって、それが特定の宗教教義であることを明らかにしてみても、すでにその教義を真理として受け容れて信仰している以上は、……その宗教教義からの離脱を図ることは通常極めて困難というべきであって、こうした事態に立ち至る可能性があることにかんがみると、それは(筆者注・正体を隠した勧誘のこと)、その者の信仰の自由に対する重大な脅威と評価すべきものということができる」
イ 「宗教上の信仰の選択は、単なる一時的単発的な商品の購入、サービスの享受とは異なり、その者の人生そのものに決定的かつ不可逆的な影響力を及ぼす可能性を秘めた誠に重大なものであって、そのような内心の自由に関わる重大な意思決定に不当な影響力を行使しようとする行為は、自らの生き方を主体的に追求し決定する自由を妨げるものとして、許されないといわなければならない」
即ち、ア 信仰というものの、一旦、信じさせられてしまうと後戻りすることが極めて困難な、超自然的事象への非合理的、非科学的な確信という性格と、イ 信仰選択の、人生そのものへの決定的かつ不可逆的な影響力に鑑みれば、正体を隠した勧誘は、信仰の自由への重大な脅威だというのである。
結果については次のとおり判断している。
③ 統一協会の伝道活動は、「社会的にみて相当性があると認められる範囲を逸脱した方法及び手段を駆使した、原告らの信仰の自由や財産権等を侵害するおそれのある行為というべきであって、違法性があると判断すべきものである」
甲事件において裁判所は結論として正体を隠した勧誘等を内容とする統一協会の伝道・教化活動について、目的と結果の不当性も認定したうえで最終的に「信仰の自由や財産権等を侵害するおそれ」のある行為であると認定した。逆にいえば、「おそれ」がある行為としか認定しなかったのである。原告らは全員統一協会員となっている元信者であり、献金をさせられその返還を請求しているのに、である。
その理由として、今の時点となれば推測しうることなのであるが、正体を隠した勧誘のあと、文鮮明をメシアであると信じさせる=宗教的回心をおこさせる=までのプロセスの違法性が、裁判官が納得できるまでには解明されていなかったからであると思われる。
私は甲事件において、統一協会の伝道・教化課程の中で行われている事実を詳細に主張し、それを承諾誘導の技術等についての私の理解を用いて解明し、いかにして受講生が統一原理を真理として信じてしまうのかについて可能な限りの主張をしたのだが、裁判所の受け入れるところとはならなかった。
乙事件判決の内容
平成24年3月29日、札幌地裁で言い渡された元信者原告40名近親者原告(物品を買わされた人たち)23名の訴訟で、札幌地裁は元信者原告勝訴の判決を言い渡した(以下、「乙事件」という)。
この判決の最大の特徴は、人がどのようにして一神教の信仰を得るのかという問題に真正面から取組み、それについて原告の主張とは異なる裁判所の認識を明らかにしたことである。
私は、甲事件への取組みを基礎に、新しく入手した証拠も用いて、統一協会の伝道・教化課程の事実をより詳細に主張し、それを承諾誘導の技術等で分析し、さらに、訴訟の最終段階で、認知的不協和の理論を用いて分析し、主張した。それは、私の、人は統一協会の伝道・教化課程でなぜ文鮮明をメシアとして信ずるようになるのかという問題に対する答えのつもりだったのだが、その主張は、裁判所の採用するところとはならなかった。
しかし、この判決の行った判断の中で、私の思考の至らぬところに光りをあて、その後の糧となった判断を少なくとも二つあげることができる。一つは、「人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない、神秘に帰依するとの選択は情緒を大きく動かされて初めて可能である」ということであり、二つめは、「入信後に特異な宗教的実践(自分の人生と財産を差し出し、経済活動に従事すること)が求められる場合、その宗教の伝道活動においては、入信後の宗教的実践内容がどのようなものとなるのかを知らせるものでなければならない、信仰を得させた後で初めて特異な宗教的実践を要求することは、結局、自由な意思決定に基づかない隷属を強いるおそれがある」ということである。
正体を隠した勧誘については、次のとおり、その役割を分析した。
「原告らに対しては、……統一協会という名称はおろか宗教の伝道活動であることすら秘匿される。
宗教教義として説明されるより、科学的言説を用いるなどして説明される方が、多くの人は、原罪や霊界・因縁が実在すると信じやすい。このことが明らかであるため、統一協会は、原告ら受講生が、原罪や霊界・因縁が実在すると信じ易い状況を作出するため、宗教性を秘匿するものと考えられる。……
しかし、宗教性を秘匿して人に信仰を植え付ける行為は、自由な選択に基づかないで隷属を招く恐れが強い。特に、統一協会の場合、入信後の宗教活動が極めて収奪的なものであるから、宗教性の秘匿は許容しがたいといわざるを得ない」
すなわち、乙事件判決は、正体を隠した勧誘によって宗教性を秘匿し、原罪や霊界、因縁という超自然的事象の実在を、受講生がより信じやすい状況を意図的に作り出していること、それにより、信仰が植え付けられ、自由な選択に基づかない隷属を招くおそれが強いから許されないとしたのである。
丙事件判決の内容
平成26年3月24日、札幌地裁は新規元信者原告4名、その他は甲事件の原告らの経済的被害の回復についての訴訟で新規元信者原告ら勝訴の判決を言い渡した(「丙事件」という)。
この判決での正体を隠した勧誘に関わる部分は次のとおりである。
「対象者らは、初期段階では、……勧誘先が宗教であり教えられていることの内容が宗教教義であることを明らかにされず、かつ、勧誘を受けていることを第三者に言わないように言われていたのであるから……教義に対する論証・批判の契機を与えられないまま、統一協会の教義を信仰させられるに至ったのであり、……原告らが統一協会の教義を自由意志に基づいて選択した(帰依した)とは到底認められない」
総括
以上によれば、統一協会の伝道目的については対象者の財産の収奪と労働力の搾取と犠牲者の再生産であり、人の内面的救済を目的としていないとの認定が確定している。結果については、統一協会の伝道・教化活動によって信教の自由(信ずるか否かを選択する自由)が侵害されたとの認定に到達しているといえる。重要と思われることは、甲事件で認定されている「財産権等を侵害する恐れ」が、乙・丙事件では記載されていないことである。財産権の侵害は、伝道・教化課程が不法行為であることを認定する要件ではないのである。信教の自由の侵害はそれだけで極めて重要な権利侵害であり、財産権の侵害はその後に起こることだからである。
どの時点で信教の自由が侵害されたといえるのかについて、明確に判示されてはいないのだが、これは文鮮明が再臨のメシアであると信じた時=宗教的回心が発生した時である。このことによって受講生は統一協会員になるからである。
乙事件判決の、入信後に特異な宗教的実践を求める場合、伝道活動においてその宗教的実践活動を知らせるものでなければならないとの指摘は重要である。それがなければ、自分の意志で隷従を選択したとはといえないからである。
正体を隠した伝道については、乙事件において、宗教教義として説明されるより、科学的言説を用いるなどして説明される方が、多くの人は、原罪や霊界・因縁が実在すると信じやすいとの認定にまで到っている。しかし、この認定は原罪や霊界・因縁などの超自然的事象の実在を、人は言葉による論理的な説明によって信ずるようになるということなので、同事件判決中の人が神秘に帰依するメカニズムの説明と矛盾すると評価される恐れがある。丙事件の認定にも同じ問題がある。すなわち、この点に関しては、正体を隠した伝道によって「原罪や霊界・因縁など超自然的事象について、統一協会が望むとおりの知的な理解をさせやすい」というのが到達点というべきである。したがって、当初に掲げた疑問、人はなぜ文鮮明をメシアであると信ずるのかについて、正体を隠した伝道活動の故であるとの説明はできていないのである。
原理講論の分析からわかること
統一協会がその伝道・教化課程に課している課題がある。それは伝道・教化課程でおこなわれていることについての知識に基づいて、原理講論を分析すると次のとおりのことなのである。
- ① 統一原理は文鮮明が再臨のメシアであることを「論証」する目的で作られている。
- ② 統一原理(それを教える伝道・教化課程)は文鮮明を再臨のメシアであると「実感させる」=宗教的回心を引き起こす=目的で作られている。
- ③ 統一原理は受講生を統一協会員になるよう追い込むことを目的として作られている。
- ④ 統一原理は社会的に悪である行為も善であるとして実行することのできる人間を作る目的で作られている。
- ⑤ 統一協会以外の他者が所有権に基づいて所有している金銭についても、本来神の所有物であり、人間の堕落によってサタンに奪われたものであるから、その物自体が神=復帰した人間・文鮮明の=のもとへの復帰を望んでいるという、他者の財産を収奪するための極めて攻撃的な思想を信じさせ、それを実践させる目的で作られている。
①〜⑤の関連性
①は何故メシアが再臨しなければならないのかについて、知的な理解をさせるという内容である。知的な理解のさせ方について自由意思を制約する様々なやり方が指摘されうる。例えば、霊人体という統一原理の中核的概念について、教えの当初には、その特異な内容を明らかにせず、霊人体=魂=心と偽って納得させるとか、統一原理の構成そのものが創造原理で喜ばせ、堕落論でぐっと心理的に落とし込み、復帰原理で希望を与えるという、コントラストの原理を利用しているなどである。
しかし、知的な理解をどのように深めさせたとしても、文鮮明がメシアであることを「実感させる」状態にまですることはできないのであろう。自然人たる文鮮明が再臨のメシアという超自然的存在であることを、乙事件判決が言うとおり、人は「言葉による論理的な説明を理解して」確信するのではないからである。知的な理解は②の宗教的回心を引き起こすための不可欠な土台を形成する行為なのである。そして、刷り込まれ知的に理解させられた教義が、「真理」である=信仰に基づく確信=となるのは、②の宗教的回心が発生するからなのである。
③〜⑤は②の宗教的回心によって、再臨のメシアである文鮮明に帰依するということがあって、初めて可能になることである。メシアの解明した真理であり、救いのために必要なのだと説明されれば、メシアを受け入れた人は、それに従うのである。③と④を受け入れることとアベル・カインの教えによって人は文鮮明に隷従するようになるのであり、⑤を受け入れることによって、嘘をついて物を売ることも正しいこととして実践できるようになるのである。
以上のとおり、原理講論=統一協会の伝道・教化課程=で達成されようとしている中核的な目標は、②の受講生に宗教的回心を起こさせることなのである。
宗教的回心の発生と正体隠しの伝道
では、②の宗教的回心を起こさせることと、正体隠しの伝道とは、どのように関連するのだろうか。
②の宗教的回心は、受講生が統一協会の伝道・教化課程を歩み続けなければ発生しない。そして、無神論者や宗教は信じないという人は、いくら伝道・教化課程を歩まされても、宗教的回心を発生しないか発生確率が極めて低い。教えられることは原罪とか霊界とか因縁など超自然的事象にかかわることが中心だから、そのような人には到底受け入れられないからである。だから、占いなど目に見えないものを信じるか、あるいは宗教に親和性の高い人が受講対象者として選択される。そして、理屈っぽいとか、警戒心の強い人も避けられる。教えが浸透していくのに手間がかかるからである。求められるのは素直な人である。そのような人であるかどうかは、街頭などにおける最初の接触で判断され、望ましくない人は誘われない。
そのような選択された人達が、高度に組織的・目的的・体系的に整備された伝道・教化課程に、正体を隠した上に虚偽の理由で勧誘される。その課程を歩まされると、2009年頃の南東京教区での資料についての私の計算によれば、ビデオセンターの受講を決定した人のうち、統一協会員となる割合は25%以上という信じられないほどの高率である。
その場では統一協会の宗教教義が、そのことを隠して、事実である、真理であるとして、上記のとおり、さまざまなテクニックを用いて刷り込まれる。だから、超自然的事象についての知的な理解の刷り込みが極めて効率的におこなわれるのである。
以上のとおり、統一協会の正体を隠した勧誘は、宗教的回心を起こさせることを目的としている伝道・教化課程に、人々を引き込むために必須であり、宗教的回心を起こさせるための土台となる統一原理を、事実である、真理であるとして刷り込むことを可能にする方法なのであり、その結果驚くほどの伝道効率をあげているのである。それらは、②の宗教的回心を引き起こすための不可欠な準備となる行為であり、②の宗教的回心が発生した後は、それまでに刷り込んだ教義が真理として受講生を拘束することとなり、それを土台にその後に教えられる③〜⑤によって、統一協会=文鮮明に隷従する人間が作られていくのである。
正体を隠した伝道は、文鮮明が再臨のメシアであることを実感させ、宗教的回心をおこさせるために必要不可欠な、統一原理の刷り込みを、多くの人に対して効率的に行うことを可能にするのであって、途中で伝道・教化課程を離れた人にとっては、その人の信教の自由を侵害するおそれのあった行為であり、そのまま統一協会員となった人にとっては信教の自由を侵害する行為と考えられる。
上記のとおり、人が文鮮明をメシアと納得してしまう過程を論証・立証できれば、正体を隠した勧誘はその行為のみで、被勧誘者に対する不法行為となると考えられる。